« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月22日 (金)

子供の叫び 何のためにがんばるの?

 こんな広告を見ました。

 ボクシングリングの中央に勉強机。

 そこには、スタンドライトに鉛筆立て、
 教科書や参考書が山積みにされている。

 子供は、それらの隙間で、
 机に顔を伏せて頭を抱え、
 今にも、キレてしまいそうな雰囲気です。

 リングの外では、
 お父さんらしき人が、
 身を乗り出して、声をからして応援し、
 お母さんらしき人は、拳を突き上げ、
 勉強する子供を応援しています。

 そのキャッチコピーが、

 「何のために、がんばるの?」

 左端には、次のような文章が掲載されていました。

=============================

 話そう、親子で。

 ぼくのことを全然わかってくれない。
 ぼくの話なんか、聞いてもくれない。
 そう、子供はひとりぼっちで闘っている。
 ただの「がんばれ」じゃ、子供には届かない。
 ちゃんと話そう。もっと話そう。子供から逃げずに。
 子供がいちばん話したい人は、あなたです」

=============================

 
 これは、
公共広告機構が、朝日新聞に掲載した広告です。
 

 「何のために、がんばるの?」
 子供の叫びが、その写真から伝わってきます。
 
 目的が分からなかったら、
 大人だって、頑張れるはずがありません。

 「何のために、勉強するの?」と聞かれても、
 その問いには答えず、
 勉強、勉強、ベンキョー!!としか言えないならば、

 「何のために、生きるの?」と尋ねられても、
 その問いには、答えられないのではないでしょうか。

 ~~今日のリンク~~

 なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで

 親鸞会会員ルドルフのページ

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

命の儚さと重さは矛盾しない

 2006年のベストセラー総合第1位は、
 藤原正彦さんの『国家の品格』だそうです。(トーハン調べ) 

 私も読みました。

 藤原さんは、
 「いじめを本当に減らしたいなら、
 『大勢で一人をやっつけることは文句なしに卑怯である』、
 ということを叩き込まないといけません」
 と、訴えておられます。

 いじめは卑怯であると教えるのは
 悪いことではないと思いますが、

「『命の大切さ』などというのは、
 マスコミが垂れ流す偽善に過ぎません。
 本当は人の命など、吹けば飛ぶような軽いものです」

 という主張には、同意できません。

 人の命----。それは、確かに
 「朝には紅顔あって、夕には白骨となれる身なり」
 と、いわれるように儚いもの。

 平均寿命が延びたといっても、
 それまで生きておれる保証はなく、
 それどころか、明日、いや今晩、
 どんな縁で死んでいくか、分かりません。

 しかし、「命の儚さ=命の軽さ」、ですか?

 人の命が軽いなどと、
 根拠もなく、断言するのは、軽率だと思います。
 
 そのあとの、
 「かくも命は軽く儚いものだからこそ
 命は大事にしなければいけない」の言も、
 説得力を感じません。

 

 「だからこそ」と言いたいならば、

 「命はかくも儚い」

 だからこそ 

 「瞬きするような、あっという間の人生で
 何をすべきか、最優先で真剣に考えよ」と、

 訴えてほしいと思います。

 ~~今日のリンク~~

 親鸞会批判の真実

 第2親鸞会ちゃんねる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

東大卒ニート?

 毎日新聞によると、東京大学生の8割が、
 将来の進路や生き方に悩んでいることが、 
 東大発表の学生生活実態調査で分かったそうです。

 ニートやフリーターになる可能性を感じている学生も
 3割近くいたとか。

 これが一本の記事になるのは、
 え?東京大学の学生さんがどうして?
 というサプライズがあるからなのでしょう。

 何かを学んだり、知識を増やすことや、
 大学へ進むことは、
 それ自体が目的ではないのですから、
 
 そのことしか考えずに突っ走れば、
 いくら東京大学の学生さんでも、
 先が見えなくなるのは当然だと思います。

 そういえば、
 東大英文科を卒業した芥川龍之介も、
 
『侏儒の言葉』の中で、「人生」と題して
 次のように書いています。

============================

   人生
    ――石黒定一君に――

 もし游泳(ゆうえい)を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、
 何人も無理だと思うであろう。もし又ランニングを学ばないものに
 駈(か)けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを
 得まい。しかし我我は生まれた時から、こう云う莫迦(ばか)げた
 命令を負わされているのも同じことである。
 我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? 
 しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中
 に踏み入るのである。勿論(もちろん)游泳を学ばないものは満足
 に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後
 に落ちそうである。すると我我も創痍(そうい)を負わずに人生の
 競技場を出られる筈(はず)はない。
 成程世人は云うかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに
 君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者(ゆうえいしゃ)や千
 のランナアを眺めたにしろ、忽(たちま)ち游泳を覚えたり、ラン
 ニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く
 水を飲んでおり、その又ランナアは一人残らず競技場の土にまみれ
 ている。見給え、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに渋面
 を隠しているではないか?
 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我
 我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云
 うゲエムの莫迦莫迦(ばかばか)しさに憤慨を禁じ得ないものはさ
 っさと埒外(らちがい)に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法
 である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を
 恐れずに闘わなければならぬ。

============================

 ~~今日のリンク~~
 

  親鸞会ブログwatch 

  浄土真宗親鸞会 正本堂 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ネット上に「神」?

 『読売新聞』のコラム・編集手帳で読みました。

  「(前略)インターネット上での参拝や祈願を受け付
   ける神社が増えたのを受け、神社本庁は「ネット上
   に神霊は存在しない」として、全国の神社に自粛要
   請の通知を出した◆「神霊は神社という場所や空間
   に鎮座するもので、信仰本来の形が崩れかねない」
   と本庁は言う。ネット参拝を導入している神社から
   は、「神社に親しみをもってもらえ、遠方の人の助
   けにもなるのに…」と当惑の声も聞こえる(後略)」

「ネット上に神霊は存在しない」というのは
 確かにそうでしょう。

 でも、神社という場所や空間に、
 何がどのように鎮座するのでしょう?

----そういえば、
  幕末から明治への激動期に生きた福沢諭吉が、
  自らの半生をつづった『福翁自伝』には
  こんなエピソードが描かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 年寄などの話にする神罰冥罰なんということは大嘘
 だとひとりみずから信じきって、今度はひとつ、稲
 荷様を見てやろうという野心を起こして、私の養子
 になっていた叔父様のうちの稲荷の社の中には何が
 入っているかしらんとあけてみたら、石が入ってい
 るから、その石をうっちゃってしまって代わりの石
 を拾うて入れておき、また隣家の下村という屋敷の
 稲荷様をあけてみれば、神体はなにか木の札で、こ
 れを取って捨ててしまい平気な顔していると、まも
 なく初午になって、幟をたてたり太鼓を叩いたりお
 神酒を上げてワイワイしているから、私はおかしい。
「ばかめ、おれの入れておいた石にお神酒を上げて拝 
 んでるとはおもしろい」とひとりうれしがっていた
 というようなわけで、(中略)。うらない、まじな
 い、いっさい不信仰で、狐狸がつくというようなこ
 とは、はじめからばかにして少しも信じない。子供
 ながらも精神はまことにカラリとしたものでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ~~今日のリンク~~

 親鸞会 家族の会

 親鸞会と寺院の構図 寺の被害

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 9日 (土)

寺の存在意義いかん

「瓦の葺き替え17万5000枚、京都・東本願寺大修復」の記事を
 
読売新聞で見ました。

 東本願寺の御影堂は、世界最大級の木造建築だそうで、
 約110年ぶりの大修復が行われるそうです。

「地上18メートルの足場で僧侶や門徒ら約400人が見守る中、
 大谷暢顕門首らが安全を祈願。関係者ら9人が、軒先になる平瓦など
 計5枚を2人1組で屋根に置き、大谷門首がくぎを打ちつけた」

 と報道されていて、おや?と思いました。

 東本願寺といえば、親鸞聖人を祖師と仰ぐ、
 浄土真宗の寺でしょうが、
 こんな場合に、「祈願」というものがあるんでしょうか。。。

 今、世間中が、「いじめ自殺問題」で、喧々囂々しています。

 なぜ自殺してはならないのか?
 死んで、本当に楽になるのか?
 命は地球よりも重いといわれるのはどうして?

 そのような疑問に、
 明解な答えを示すべき時ではないのでしょうか。
 

 東本願寺でいわれるように、

 本当に、死んだ後は、何もないのでしょうか?

 それとも、

 西本願寺でいわれるように、

 死ねば、だれでも極楽へ往って仏になれるのでしょうか?

 修復工事もよろしいですが、
 本来の果たすべき寺の役割はどうなっているのか、
 大切な何かが抜け落ちているような気がしてなりません。

 ~~今日のリンク~~

  親鸞会ブログwatch

  親鸞会と寺院の構図  
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »