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2008年12月31日 (水)

どうしても分かってほしい時に

 村上春樹氏の旅行記
 「もし僕らのことばがウイスキーであったなら」を読んだ。

 奥さんの陽子さんが撮影した写真とともに
 きれいに編集されている文庫本(
新潮社)です。

 村上春樹さんといえば、
 今や、ノーベル文学賞受賞候補の筆頭?にも
 挙げられる世界的な作家ですが、

 私は、小説などは、
 世界観というか人生観というか
 表現が深すぎてついていけない、というのが
 正直な思いです。

 でも、旅行記なんかは、
 ラフな感じで書かれていて、

 しかも、文章が読みやすく、
 真似のできない比喩表現がちりばめられているので
 とても勉強になります。

★たとえば……

「地図を開いて眺めてみると、
 愛想のないつるりとした海岸線をもつ東海岸とは
 対照的に、
 スコットランドの西海岸には、
 様々に魅力的なかたちをした島嶼がちりばめられている。
 まるで天の上のほうにいる誰かが筆をふるって、
 景気よく滴をばらまいたように」
 
 スコットランドの海岸線を説明するのに、
 こんな表現は、なかなかできないと思います。

★それと、ウイスキーの味を表すのに、
 音楽をからめるところも、
 村上氏ならでは……。

「独特の、少しくせのある香りがする。
 磯くさい、潮っぽい----というのが感覚的に
 近いかもしれない。
 普通のウイスキーの香りとはずいぶん違っている。
 その『くささ』こそがアイラのウイスキーの
 基調になっている。
 バロック音楽でいう通奏低音である。
 その上に、様々な楽器の音色とメロディーが
 かぶせられていくわけだ」

 文章で例えているところもあります。

★「たしかにラフロイグには、まぎれもない
  ラフロイグの味がした。
  10年ものには10年ものの頑固な味があり、
  15年ものには15年ものの頑固な味があった。
  どちらも個性的で、おもねったところはない。
  文章でいえば、たとえば、
  アーネスト・ヘミングウェイの初期の作品に
  見られるような、切れ込みのある文体だ。
  華麗な文体ではないし、むずかしい言葉も
  使っていないが、真実のひとつの側面を
  確実に切り取っている」

  さらに、音楽にも例えているのが次の表現。

 「音楽でいうならば、
  ジョニー・グリフィンの入った
  セロニアス・モンクのカルテット。
  15年ものは、ジョン・コルトレーンの入った
  セロニアス・モンクのカルテットに
  近いかもしれない。
  どっちも捨てがたく素敵だ。
  そのときどきの気持ちで好みがわかれるだけだ」

  
  比喩というのは、

  どうしても、分かってほしいことがあって、

  だけど、そのまま表現することは難しい時に、

  ああいえば伝わるだろうか、こう言えば……
  
  という気持ちの発露なんだなと思いました。

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困ったときも「蒔かぬタネは生えぬ」

 毎日新聞
 「湯島天満宮」の長男の紹介がありました。

 私は浄土真宗ですから、
 神道とは全く相容れないのですが、
 
 次のような記述があり、
 やはり因果の道理に狂いはないのだなと
 改めて実感したので、紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 小中学校は公立。高校受験の時、実は
 合格ラインに達していなかった。

 塾にも行ったし、まあ人並みに一生懸命勉強しました。
 こういう家ですから、落ちるわけにはいかないと
 いうプレッシャーも大きく、本当に不安でした。

 いくつか併願し、幸いにも第一志望に合格しました。

 高校から大学へは、付属とはいえ入学試験があります。
 もちろん、実家が神社でも
 優遇してくれるわけではありませんよ。

 ですから「たとえ試験に落ちたとしても、
 それはぼく個人のこと」と思うようにしました。

 周りで「湯島天神さんとこの子なのに」と
 騒いだとしても、騒ぐことに何の意味があるのかと。
 
 (中略)
 
 受験は努力の積み重ねです。
 神頼みだけで全然努力しなければ成就しません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「神頼みだけで全然努力しなければ」
 との表現ですが、

 立場上、このように
 言うしかなかったのだと思いますが、

 この人が受験に合格したのは、
 あくまでも、自分の努力の積み重ねの結果ですよね。
  

「因果応報」とか、「自業自得」と
 いう言葉を聞いたことがある人も多いと思います。

 浄土真宗の高森顕徹先生(親鸞会)は、
 次のように教えてくださっています。

==========================

   人間の運命は一見不思議なものと思われます。

      人間はすべて、両眼、両耳、鼻口を
       持っていることに変わりはありませんが、
       どこかその容貌に違いがあります。

       現在、地球上には四十億の人間がいると
       言われていますが、それらの人々もみな
       一人一人どこかに相違があります。

       中には双子があって瓜二つのように
       見分けのつかぬ場合もありますが、
       それでも運命は夫々異なるということは
       不思議に思われます。

       前の電車に乗った人が無事であったのに、
       二、三分後の電車に乗ったばかりに事故に
       遇って死んだり、
       怪我したりするということはいくらでもあります。

       今日の激しい交通戦争の犠牲者でも、
       瞬間的な運命の相違であらわれます。

       また人間の環境ほど不公平なものはありません。

       極貧の家に生まれる者もあれば、
       乳母つきの富豪の家に生まれる者もあります。

       男に生まれる者、女に生まれる者、
       美しく生まれる人、醜く生まれる人、
       種々様々の有様です。

       同じ人間でありながら、ニューヨークのド真中に

       生まれる者もあれば、南方のジャングルの中に
       生まれる人もあります。

       このように考えてみますと、
       人間の運命ほど不可解なものはないと
       思われるのも無理はありません。
 
       そして不遇な運命をウラミ、ノロイ、
       苦しみ悶えている人ばかりです。

       こんなところから宇宙神秘説や、
       人間運命論などが発生致します。

       偶然になったことだとウソブク者もいますし、
       キリスト教のように神さまの命令によって
       そうなったのだと言う者も出てくるわけです。

       しかし、偶然とは無知の代用語ですし、
       神サマをかつぎ出すのは未開人のなごりですから
    問題になりません。

      そこで仏法では、ここに峻厳な因果の大道理に
      立脚して、永遠不滅の業の存在を教え、

      私達一人一人が過去に造った業によって、
      この世の一切の果報が定まり、さまざまな運命を
      持つようになると教えています。

      業とは、私達の身、口、意によってなされる
      一切の行為を言いますが、

      過去の私達の行為のよしあしが、
      現在の私達の運命をつくった原因なのです。

      即ち、自己の現在の運命を生み出したものは、
      かって自己の意志によってなされた行為なのです。


      善因善果、悪因悪果、自因自果の鉄則の通り、
      まかぬ種は絶対に生えぬのです。

      故に、真実の仏法に生かされている人は
      悪い運命に立ち向かえば、自己の過去の行為を
      懴悔し、善い運命に恵まれれば、
      より精進努力をするように
      無限の向上につとめずにおれなくなってくるのです。

     (高森顕徹著『こんなことが知りたい②』より)

==========================

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2008年12月26日 (金)

僧侶の原点

 朝日新聞(20年12月25日)に
 次のような投稿がありました。

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 ■僧侶は原点に戻れ

 お釈迦様は亡くなる時に僧侶に、
「お前たちは葬儀にかかわってはいけない」と
 おっしゃっています。
 
 お釈迦様の教えに葬送儀礼はありません。

 各宗派の開祖は、
「僧侶が葬儀にかかわり生計を立てよ」と言わず、
 逆に厳しく戒めています。
 
 僧侶が葬儀に深くかかわるようになったのは
 江戸時代初期の「天草・島原の乱」からです。

 現在、音を立てて崩れるがごとく
 檀家離れが全国で進んでいるのは、
 僧侶がいわゆる檀家制度にあぐらをかき、
 お布施と称した金銭を受け取るなど、
 本来の姿を忘れたからではないでしょうか。
             (大阪府 僧侶 62歳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ……確かに、今、仏教といえば、
 真っ先に、「葬式」「法事」を思い浮かべる人が
 多いのではないでしょうか?

 しかしそれは、
 仏教を説かれたお釈迦さまの御心に
 そわないことのようです。

 浄土真宗の祖師・親鸞聖人は、
 親鸞学徒の葬式に対する心構えを、
 次のように教えておられます。

「親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」と云々。
 これすなわち、この肉身を軽んじて、
 仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。
 これをもって思うに、
 いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず、
 もっとも停止すべし。
 
(親鸞聖人の曾孫・覚如上人の『改邪鈔』というお聖教に
 記されているお言葉です)

 これはどのような意味のお言葉なのでしょう。

 浄土真宗親鸞会高森顕徹先生は、
 次のように書かれています。

===========================

 この親鸞聖人のお言葉は種々に味えますが、

 先ず第一は、
 肉体の葬式に力を知れずに早く魂の葬式、
 即ち信心決定に力を入れよ、ということです。

 親鸞聖人は信心決定した時をもって、魂の臨終であり、
 葬式だと教えられたお方です。

 覚如上人も
「平生の時、帰命の一念発得すれば、その時をもって
 娑婆の終り臨終と思うべし」と仰言っているように、

 信心決定した人は、もう葬式は終っているのです。

 だから、セミのぬけがらのような肉体の葬式など、
 もはや問題ではないのです。

「つまらんことに力を入れて、大事な信心決定を
 忘れてはなりませんぞ」と
 最後まで真実を叫び続けてゆかれた聖人のお言葉なのです。

 次に味わえる聖人の御心は、
「生前、親鸞は多くの生命を奪い、その肉を食べて来た。
 中でも魚を最も多く食べて生きて来た。
 いかに生きる為とはいゝながら、誠に相済まんことであった。
 せめて死後なりとも、この肉体を魚に食べて貰おう」
 という深信因果の御心と拝します。

 また「親鸞は幸福にも、仏凡一体、機法一体、南無阿弥陀仏と
 一体にさせて頂いた親鸞の肉体を一分きざみにしても
 南無阿弥陀仏の染まらぬところはない。
 この親鸞の屍を食べることによって、
 南無阿弥陀仏と縁を結び、次生に人間界に生まれて、
 弥陀の本願を聞いて、親鸞と同じく信心決定の大幸福を
 頂いてくれる魚が一匹でもあってくれよ。
 
 これが罪悪深重、いずれの行も及び難い親鸞のせめてもの
 最後の願いである」

 という御心もあったのではなかろうかと拝察せずにはおれません。

         (高森顕徹著『こんなことが知りたい』1)

===========================

「肉体の葬式」よりも「魂の葬式」を急げ。
 そう教えていかれたのが親鸞聖人なのでした。

 では、魂の葬式とは?
 またの機会にお伝えしたいと思います。

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2008年12月24日 (水)

哀しい夜

 ネットで読売新聞のトップニュースを見て驚きました。

 少し前まで、バラエティ番組で、
 お茶の間に笑顔を振りまいていた、

 元タレントの飯島愛さんが亡くなったそうです。36歳でした。

==========================

 元タレントの飯島愛さん、都内マンションで死亡

 24日午後3時15分頃、東京都渋谷区桜丘町のマンションの

 一室で、この部屋に住む元タレントの飯島愛さん(36)が

 死亡しているのを知人の女性が発見、119番した。

 警視庁渋谷署によると、知人の女性が飯島さんと連絡が

 とれなくなったため、マンションの管理人に話し、

 室内に入ったところ、飯島さんがリビングでうつぶせの状態で

 倒れていたという。室内が荒らされた跡や外傷はなかった。

 同署は事件性はないとみており、飯島さんの遺体を25日にも

 行政解剖して死因などを調べる。

==========================

 知り合いでも、友人でも何でもない、

 ただ、テレビで見たことがある、

 あんなに若かった、きれいだった、しかも笑っていた……

 そんな人が、もうこの世にいない。

 それが、どうしてこんなにショックなのでしょう。

 私が毎月ご法話を聞かせて頂いている

 浄土真宗の布教使・高森顕徹先生(親鸞会)は、

 『こんなことが知りたい』という本の中で

 次のように教えてくださっています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 誰でも、親や兄弟姉妹、親戚、友人などの死に

 出遇うと 泣きます。

「もう再び遇えないのだなあ、話もできないのだなあ」

 という別離の哀しみもありますが、

「自分もいつかは必ず、再び帰ってはこられない遠い旅に、

 たった一人で旅立たねばならないのだなあ」

 という恐ろしい淋しさから、

 自分の為に流す涙でもあるのです。

          (『こんなことが知りたい』3・高森顕徹著)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ひとの死を、哀しんでいるようで、

 ほんとうは、

 自分が必ず死んでいかねばならない、
 その事実を忘れて生きている愚かさと、

 動かし難い、重い現実を
 どうすることもできない人間の無力を突きつけられ、

 泣かずにおれなくなるのでした。

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2008年12月22日 (月)

あんしん食材えらぶワケ

 パソコンの調子が悪くなって、ご無沙汰しておりました。。。

 ひさしぶりの更新です。

 食の安心・安全が、以前にも増して求められるようになりましたね。

 朝日新聞 には次のように報じられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   主婦の6割「1割高くても食品履歴を」 

 価格が1割以上高くても、生産履歴が確認できる野菜や果物

 を選ぶ――。食の安全にかかわる問題が相次ぐ中、食品に

 対する主婦の意識が変化してきたことが、三井物産戦略研究所の

 調査でわかった。履歴のうち特に重視するのは、「原産国」だった。

 11月中旬、20代から60代の主婦を対象に、

 インターネットを使ったアンケートを実施。2060人から回答を得た。

 野菜や果物を買う場合、「価格が1割以上高くても、生産履歴が

 確認できるものを選ぶ」とした人は62.5%で、

 昨年10月の前回調査より16.7ポイント増えた。

 「2割以上高くても選ぶ」という人も

 9.1ポイント増えて、21.6%になった。  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 普段は何事にも、「大丈夫でしょ」と、比較的おおらかな人でも、

 食べるものは、命に直結しますから、

 「なんでもOK!」というわけにはいきません。

 特に、子育て真っ最中のママさんたちなら、なおさらですね。

 ところで、そもそも、そうやって体によいものを食べ、

 命を大切にして生きていくのは、何をするためなのでしょう。

 話が飛躍している!と思われるかもしれませんが、

 むしろ、この問いのほうが根元なのです。

 仏法を説かれたお釈迦さまは、

 「天上天下 唯我独尊 三界皆苦 吾当安此」と仰有っています。

 天の上にも、天の下にも大宇宙広しと雖も、

 唯、我々人間だけが、たった一つの尊い使命をもって生まれてきたのだよ、

 と、釈尊は教えられています。

 それは、人間に生まれなければ果たせない、

 尊く、重い目的だから、人命は地球よりも重いといわれるのですね。

 日本では、鎌倉時代に生まれられた親鸞聖人が、

 そのお釈迦さまの説かれた仏教の真髄を明らかにしてゆかれました。

 人間に生まれてよかったという生命の歓喜を獲られる世界があるのだと・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  

  

  

 

  

 

 

 

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