時の流れに身をまかせるだけでよいか
早いもので、平成も21年目となりました。
まだ高校生のころ、
昭和の時代の終わりを告げる「号外」を
街中で受け取って驚いた記憶が
静かによみがえってきます。
こうして、瞬く間に、
人生のときは流れてゆくのでしょうか。
「光陰矢の如し」とはよくいったもの。
医学の進歩で、人生100年になったとしても、
大宇宙の歴史とは比ぶべくもありません。
いったい、何しに、
この世に生まれてきたのでしょう。
時の流れに身をまかせるだけでよいのでしょうか。
今日は、一休の唄から。
高森顕徹先生(親鸞会)が
『白道燃ゆ』に、次のように書かれているので紹介します。
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「人生は、喰て、ねて、起きて、糞たれて、
子は親となる、子は親となる」
と謳ったのは一休である。
また、「人生は、タライよりタライに移る、五十年」
とも喝破している。
医学の進歩で、人生、七、八十年になったが、
悠久の天壌から比ぶれば、五十年も百年も変わらない。
このようなものが人生なら、天井裏のネズミの方が、
ズーとましである。
彼らは人間のように、あくせく働かずに陽気に
喰っている。
これでは万物の霊長としての人間の資格は何処にもない。
一体、人間は何の為に、
あくせくして生きているのであろうか。
ある処に、愚かな金持ちがいた。
ある時、有名な画家を訪問して、
見事な作品の数々を見て感嘆した。
それが病みつきで、
自分もあのような絵を描いてみたいと思うようになった。
金にまかせて、素晴らしいアトリエを建てた。
高価なフランス製の絵具や、その他、
絵に必要な一切のものを買い集めた。
彼は、そこへ閉じこもって一歩も外へ出ずに
絵を描き続けた。
数年たって彼は、突然、近所の人々に、
アトリエの参観を許した。
珍しがって見に来た人々は、どの絵も、どの絵も、
小学生が描いたような稚拙なものばかりに驚いた。
そこで近所の或る人が、
彼を訪ねて種々のことを尋ねてみた。
彼は、アトリエや、絵具の良いものさえ集めれば、
よい絵が描けるものだ、と堅く信じ切っていた。
その為に、肝心の腕を磨くことを忘れていたという。
金や、財産や、名誉や、地位を得ることが幸福だ、
と言う迷信が、人類を支配している。
迷信に凝り、線香六十束でいぶり殺された娘さんや、
悪魔を退散させてやるといい、殴り殺した事件や、
邪教を盲信して医者にかからず、
盲腸炎が手遅れになって、一命を失った人達だけが、
迷信の犠牲者ではない。
金や、財産や、地位や、名声は、
我々を幸福にする材料ではあるが、
それがそのまま幸福ではない。
幸福と幸福の材料を混同している迷信こそ、
全人類を不幸のドレイにしている。
いくら良い材料ばかり、多く集めても幸福にはなれない。
生け花にしても、料理にしても、洋裁にしても
同じである。
いけ方を知らなければ美しい花はいけられない。
料理方法を知らなければ、美味しい料理は作れない。
技術がなければ、つくった洋服は着られない。
たとえ材料は悪くとも、
お花の先生は美しい花をいけるし、
料理の先生は、美味しい料理を作る。
名医の眼には、薬草でないものはないと言われる。
悪い材料も生きてくる。
あり余る財産を持ち、立派な邸宅に住み、
ぜいたくな生活をしながら、不幸を囲っている人もある。
また、貧しい生活の中にも、我身の幸福を喜び、
力強い、明るい生活を送っている人もいるのは
その為である。
昔と比べれば、現代人は驚異的に物質に恵まれて
いながら、不安と焦燥、満たされない孤独感に
悩んでいる。
材料の活殺は、それを使用する人の腕一つに
かかっている。
その生かし方を教えたものが、真実の仏法なのである。
(高森顕徹著『白道燃ゆ』より)
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