2009年1月 2日 (金)

時の流れに身をまかせるだけでよいか

 早いもので、平成も21年目となりました。

 まだ高校生のころ、
 昭和の時代の終わりを告げる「号外」を
 街中で受け取って驚いた記憶が
 静かによみがえってきます。

 こうして、瞬く間に、
 人生のときは流れてゆくのでしょうか。

「光陰矢の如し」とはよくいったもの。

 医学の進歩で、人生100年になったとしても、
 大宇宙の歴史とは比ぶべくもありません。

 いったい、何しに、
 この世に生まれてきたのでしょう。

 時の流れに身をまかせるだけでよいのでしょうか。

 今日は、一休の唄から。

 高森顕徹先生(親鸞会)が
 『白道燃ゆ』に、次のように書かれているので紹介します。

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「人生は、喰て、ねて、起きて、糞たれて、
 子は親となる、子は親となる」

 と謳ったのは一休である。

 また、「人生は、タライよりタライに移る、五十年」
 とも喝破している。

 医学の進歩で、人生、七、八十年になったが、
 悠久の天壌から比ぶれば、五十年も百年も変わらない。

 このようなものが人生なら、天井裏のネズミの方が、
 ズーとましである。

 彼らは人間のように、あくせく働かずに陽気に
 喰っている。

 これでは万物の霊長としての人間の資格は何処にもない。

 一体、人間は何の為に、
 あくせくして生きているのであろうか。

 ある処に、愚かな金持ちがいた。
 ある時、有名な画家を訪問して、
 見事な作品の数々を見て感嘆した。

 それが病みつきで、
 自分もあのような絵を描いてみたいと思うようになった。

 金にまかせて、素晴らしいアトリエを建てた。
 高価なフランス製の絵具や、その他、
 絵に必要な一切のものを買い集めた。

 彼は、そこへ閉じこもって一歩も外へ出ずに
 絵を描き続けた。

 数年たって彼は、突然、近所の人々に、
 アトリエの参観を許した。

 珍しがって見に来た人々は、どの絵も、どの絵も、
 小学生が描いたような稚拙なものばかりに驚いた。

 そこで近所の或る人が、
 彼を訪ねて種々のことを尋ねてみた。

 彼は、アトリエや、絵具の良いものさえ集めれば、
 よい絵が描けるものだ、と堅く信じ切っていた。
 その為に、肝心の腕を磨くことを忘れていたという。

 金や、財産や、名誉や、地位を得ることが幸福だ、
 と言う迷信が、人類を支配している。

 迷信に凝り、線香六十束でいぶり殺された娘さんや、
 悪魔を退散させてやるといい、殴り殺した事件や、
 邪教を盲信して医者にかからず、
 盲腸炎が手遅れになって、一命を失った人達だけが、
 迷信の犠牲者ではない。

 金や、財産や、地位や、名声は、
 我々を幸福にする材料ではあるが、
 それがそのまま幸福ではない。

 幸福と幸福の材料を混同している迷信こそ、
 全人類を不幸のドレイにしている。

 いくら良い材料ばかり、多く集めても幸福にはなれない。

 生け花にしても、料理にしても、洋裁にしても
 同じである。
  
 いけ方を知らなければ美しい花はいけられない。

 料理方法を知らなければ、美味しい料理は作れない。

 技術がなければ、つくった洋服は着られない。

 たとえ材料は悪くとも、
 お花の先生は美しい花をいけるし、
 料理の先生は、美味しい料理を作る。

 名医の眼には、薬草でないものはないと言われる。
 悪い材料も生きてくる。

 あり余る財産を持ち、立派な邸宅に住み、
 ぜいたくな生活をしながら、不幸を囲っている人もある。

 また、貧しい生活の中にも、我身の幸福を喜び、
 力強い、明るい生活を送っている人もいるのは
 その為である。
 
 昔と比べれば、現代人は驚異的に物質に恵まれて
 いながら、不安と焦燥、満たされない孤独感に
 悩んでいる。

 材料の活殺は、それを使用する人の腕一つに
 かかっている。

 その生かし方を教えたものが、真実の仏法なのである。

      
                  (高森顕徹著『白道燃ゆ』より)

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2008年12月31日 (水)

困ったときも「蒔かぬタネは生えぬ」

 毎日新聞
 「湯島天満宮」の長男の紹介がありました。

 私は浄土真宗ですから、
 神道とは全く相容れないのですが、
 
 次のような記述があり、
 やはり因果の道理に狂いはないのだなと
 改めて実感したので、紹介します。

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 小中学校は公立。高校受験の時、実は
 合格ラインに達していなかった。

 塾にも行ったし、まあ人並みに一生懸命勉強しました。
 こういう家ですから、落ちるわけにはいかないと
 いうプレッシャーも大きく、本当に不安でした。

 いくつか併願し、幸いにも第一志望に合格しました。

 高校から大学へは、付属とはいえ入学試験があります。
 もちろん、実家が神社でも
 優遇してくれるわけではありませんよ。

 ですから「たとえ試験に落ちたとしても、
 それはぼく個人のこと」と思うようにしました。

 周りで「湯島天神さんとこの子なのに」と
 騒いだとしても、騒ぐことに何の意味があるのかと。
 
 (中略)
 
 受験は努力の積み重ねです。
 神頼みだけで全然努力しなければ成就しません。

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「神頼みだけで全然努力しなければ」
 との表現ですが、

 立場上、このように
 言うしかなかったのだと思いますが、

 この人が受験に合格したのは、
 あくまでも、自分の努力の積み重ねの結果ですよね。
  

「因果応報」とか、「自業自得」と
 いう言葉を聞いたことがある人も多いと思います。

 浄土真宗の高森顕徹先生(親鸞会)は、
 次のように教えてくださっています。

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   人間の運命は一見不思議なものと思われます。

      人間はすべて、両眼、両耳、鼻口を
       持っていることに変わりはありませんが、
       どこかその容貌に違いがあります。

       現在、地球上には四十億の人間がいると
       言われていますが、それらの人々もみな
       一人一人どこかに相違があります。

       中には双子があって瓜二つのように
       見分けのつかぬ場合もありますが、
       それでも運命は夫々異なるということは
       不思議に思われます。

       前の電車に乗った人が無事であったのに、
       二、三分後の電車に乗ったばかりに事故に
       遇って死んだり、
       怪我したりするということはいくらでもあります。

       今日の激しい交通戦争の犠牲者でも、
       瞬間的な運命の相違であらわれます。

       また人間の環境ほど不公平なものはありません。

       極貧の家に生まれる者もあれば、
       乳母つきの富豪の家に生まれる者もあります。

       男に生まれる者、女に生まれる者、
       美しく生まれる人、醜く生まれる人、
       種々様々の有様です。

       同じ人間でありながら、ニューヨークのド真中に

       生まれる者もあれば、南方のジャングルの中に
       生まれる人もあります。

       このように考えてみますと、
       人間の運命ほど不可解なものはないと
       思われるのも無理はありません。
 
       そして不遇な運命をウラミ、ノロイ、
       苦しみ悶えている人ばかりです。

       こんなところから宇宙神秘説や、
       人間運命論などが発生致します。

       偶然になったことだとウソブク者もいますし、
       キリスト教のように神さまの命令によって
       そうなったのだと言う者も出てくるわけです。

       しかし、偶然とは無知の代用語ですし、
       神サマをかつぎ出すのは未開人のなごりですから
    問題になりません。

      そこで仏法では、ここに峻厳な因果の大道理に
      立脚して、永遠不滅の業の存在を教え、

      私達一人一人が過去に造った業によって、
      この世の一切の果報が定まり、さまざまな運命を
      持つようになると教えています。

      業とは、私達の身、口、意によってなされる
      一切の行為を言いますが、

      過去の私達の行為のよしあしが、
      現在の私達の運命をつくった原因なのです。

      即ち、自己の現在の運命を生み出したものは、
      かって自己の意志によってなされた行為なのです。


      善因善果、悪因悪果、自因自果の鉄則の通り、
      まかぬ種は絶対に生えぬのです。

      故に、真実の仏法に生かされている人は
      悪い運命に立ち向かえば、自己の過去の行為を
      懴悔し、善い運命に恵まれれば、
      より精進努力をするように
      無限の向上につとめずにおれなくなってくるのです。

     (高森顕徹著『こんなことが知りたい②』より)

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2008年12月26日 (金)

僧侶の原点

 朝日新聞(20年12月25日)に
 次のような投稿がありました。

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 ■僧侶は原点に戻れ

 お釈迦様は亡くなる時に僧侶に、
「お前たちは葬儀にかかわってはいけない」と
 おっしゃっています。
 
 お釈迦様の教えに葬送儀礼はありません。

 各宗派の開祖は、
「僧侶が葬儀にかかわり生計を立てよ」と言わず、
 逆に厳しく戒めています。
 
 僧侶が葬儀に深くかかわるようになったのは
 江戸時代初期の「天草・島原の乱」からです。

 現在、音を立てて崩れるがごとく
 檀家離れが全国で進んでいるのは、
 僧侶がいわゆる檀家制度にあぐらをかき、
 お布施と称した金銭を受け取るなど、
 本来の姿を忘れたからではないでしょうか。
             (大阪府 僧侶 62歳)

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 ……確かに、今、仏教といえば、
 真っ先に、「葬式」「法事」を思い浮かべる人が
 多いのではないでしょうか?

 しかしそれは、
 仏教を説かれたお釈迦さまの御心に
 そわないことのようです。

 浄土真宗の祖師・親鸞聖人は、
 親鸞学徒の葬式に対する心構えを、
 次のように教えておられます。

「親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」と云々。
 これすなわち、この肉身を軽んじて、
 仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。
 これをもって思うに、
 いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず、
 もっとも停止すべし。
 
(親鸞聖人の曾孫・覚如上人の『改邪鈔』というお聖教に
 記されているお言葉です)

 これはどのような意味のお言葉なのでしょう。

 浄土真宗親鸞会高森顕徹先生は、
 次のように書かれています。

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 この親鸞聖人のお言葉は種々に味えますが、

 先ず第一は、
 肉体の葬式に力を知れずに早く魂の葬式、
 即ち信心決定に力を入れよ、ということです。

 親鸞聖人は信心決定した時をもって、魂の臨終であり、
 葬式だと教えられたお方です。

 覚如上人も
「平生の時、帰命の一念発得すれば、その時をもって
 娑婆の終り臨終と思うべし」と仰言っているように、

 信心決定した人は、もう葬式は終っているのです。

 だから、セミのぬけがらのような肉体の葬式など、
 もはや問題ではないのです。

「つまらんことに力を入れて、大事な信心決定を
 忘れてはなりませんぞ」と
 最後まで真実を叫び続けてゆかれた聖人のお言葉なのです。

 次に味わえる聖人の御心は、
「生前、親鸞は多くの生命を奪い、その肉を食べて来た。
 中でも魚を最も多く食べて生きて来た。
 いかに生きる為とはいゝながら、誠に相済まんことであった。
 せめて死後なりとも、この肉体を魚に食べて貰おう」
 という深信因果の御心と拝します。

 また「親鸞は幸福にも、仏凡一体、機法一体、南無阿弥陀仏と
 一体にさせて頂いた親鸞の肉体を一分きざみにしても
 南無阿弥陀仏の染まらぬところはない。
 この親鸞の屍を食べることによって、
 南無阿弥陀仏と縁を結び、次生に人間界に生まれて、
 弥陀の本願を聞いて、親鸞と同じく信心決定の大幸福を
 頂いてくれる魚が一匹でもあってくれよ。
 
 これが罪悪深重、いずれの行も及び難い親鸞のせめてもの
 最後の願いである」

 という御心もあったのではなかろうかと拝察せずにはおれません。

         (高森顕徹著『こんなことが知りたい』1)

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「肉体の葬式」よりも「魂の葬式」を急げ。
 そう教えていかれたのが親鸞聖人なのでした。

 では、魂の葬式とは?
 またの機会にお伝えしたいと思います。

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2006年6月23日 (金)

団塊世代の「迷走」

 時計メーカー「セイコー」は、

 団塊世代(47年~51年)の男性と
 その世代の夫を持つ女性309人ずつに、

 これまでの人生の「時の流れ方」を
 イメージしてもらったそうです。(
朝日新聞6月13日)

 すると、
 男性の24パーセント
 女性の18パーセントが
 「迷走」と答え、最多だったとか!!

 この結果を、「セイコー」さんは、
 「戦後の激動の中を、
 様々なハードルを乗り越えて
 現在までたどり着いた、という思いが読み取れる」
 と、よんでいます。

 
 しかし。。。。。
 本当に、そのようなカッコイイ人生なら、
 「迷いながら走る」
 とは言わないのでは、と思います。

 突っ走ってきたけれども、
 これでよかったのか、
 このまま、人生終わっていいのか、という
 煩悶を引きずっているような気がします。

 ちなみに、夫の定年後の時の流れ方のイメージは、
 男性30パーセント、
 女性35パーセントが、「散歩」と答え、
 こちらもまた、双方、最多だったそうですよ。
 
「定年後は、ゆっくり過ごしたいという本音が
 伝わってくる」と
 セイコーさんは分析していますが、
 こちらは、当たっているような気がします。

 ~~今日のリンク~~

 親鸞会 家族の会

 親鸞会と寺院の構図 寺の被害

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